半世紀ほど前、台湾はいかに遠かったか
昔(1970年頃)は、気がついたときにスマホでさっと検索する便利な作法はなく、旅行に出かける際の予備知識はそれなりの本に頼る以外やりようがなかった。書店に行っても観光という表題のついた本は余りなく、出版のカテゴリーも世界の地理、世界の歴史、世界の都市あるいは世界の家庭料理のような区分けが多く、どれも全集のような立派な装丁本が定番だった。読者はそれらを横断的に読み観光的な知識を得ていた気がする。多くの家庭では、応接間の飾り棚や洋酒キャビネットにジョニーウォーカーとセットで鎮座していた。私は何十年も前のその頃、初めて台湾に旅行したことを思い出している。
初めての外国旅行、大学2年。旅行費用を捻出する策はこうだった。あくまで費用は自分で用意し親から貰うことはやめよう。その代わり、やりたいことは思い切ってやろう。これを基本方針とした。さっそく新学期から勝手にバイトをやり、勝手に決めた早目の夏休みに出発し、勝手に決めた遅めの後期授業に戻る旅行計画だ。台湾に行って何をするかという計画は一切なく、台湾に行くことそのものが目的であり、滞在中の計画など思いつかなかった。滞在というより漂流のような感じだ。
パスポート、ビザの申請は自分で行った。その頃、無類の心配性の親父がパスポートや外貨申請、ビザについては何かあるといけないのでできるだけ早く取るよう毎朝のように念押しされていたのでかなり早期に取得していた。尚、私がバイトにうつつをぬかしているとは全く気がついていないようだった。
出発の日がやってきた。芝公園にある船会社から教わった日時に晴海埠頭に行き、貨物船「新達輪」を探した。日本で言えば「新達丸」とでも書くところだが、台湾では丸を輪と書いている。だが晴海埠頭では、待てど暮らせど新達輪は現れない。たまらず船会社に電話をする、「オー、船、シンタ・リーファのことネ、昨日、晴海ではなく横浜の方に着いてるヨ、本牧か大桟橋にいる。明日12時に乗ってネ。ではいってらっしゃ~い」
今朝、勢いよく自宅を出たのだが夕方ひっそりと帰宅。かなり惨めだ。
翌日、ようやく乗船した。
白い船体が美しい。船長が上部甲板にいる。貨物船とは言え、士官級は肩章のついた白い制服を着ており秩序を感じた。私が推測した船長は、ラーメン屋のおっちゃんタイプを想像していたが、いい感じの船乗りだ。クレーンで貨物を運び入れ船艙が一杯になると出航した。いよいよ出発、これからが本番なのだが、すでに半分以上は終わってしまったような気分で、ちょっと落ち着かない。そう言えば、玄界灘を通過するときは激しい船酔いをすると聞いていたので、事務長に航海日程を尋ねてみた。すると「横浜を出た後、清水港に入りそこで2日間、四日市港で2日間、そのあと神戸に寄ってから台湾に向う。しかも神戸では開港記念祭りがあるので沖合での待機を含め1週間位は停泊する」と言われ愕然! 新達輪は台湾に向けて矢のようにひた走るのかと思っていた。しかし、考えてみれば貨物船の相手は貨物であり、私は貨物の付属品のようなもの、その付属品に航海スケジュールを整えるなどという洒落たことは無用なのだ。早くもいろいろなことが分かってきた。旅と観光は悟りに満ちている、のだ!
清水港では停泊中、暑さに馴れず一晩中眠れなかった。湾内の突堤に係留されているので小さな丸窓から風は入らず、鉄製の船体はまだ火照っていて蒸し風呂状態だ。甲板で寝ようとしたら目ぼしい場所はすでに船員たちが寝ている。次の寄港地では船から脱出し、何とか公園で寝たい。
四日市港の夜がきた。何人かが上陸するので私も加わり、雑貨屋や居酒屋に行った。港というのは、街から港に向かう景色と船から降りて街に入っていく景色はこれほどまでに違うものかと改めて驚いた。すでに異国の感じだ。店の女性が沿道に出て船員の呼び込みをしている。我々一行が中国系だとわかると、すぐに「チンさん、ライライ」を連呼してくる。店に入りメニューを見る。内容は日本人向けと同じものだが、注文をとる時に売りたい料理を平気で押し付けてくるし時価の高い魚の組み合わせを奨めてくる。私は船員の食べたいものをまとめて、日本人が普通に食べるような組合せで注文をした。瞬間、店の女性は一瞬ギクッとしたが、どういうわけか私が日本人であるとは最後までまったくバレなかった。何となく寂しい感じもしたが同行の船員からはやけに好評だった。食事はいつもより安くできたそうだ。帰りに、一人が日本の友人にハガキを投函するので切手を買いたいと言うのだが、その店は外人が出す場合の切手代は余計にかかると迫ってきた。さすがにこうなれば台湾人ではいられない。久しぶりに怒ったので凱旋気分で船に戻った。公園で寝る楽しみは後日だ。
仰天した。事務長がパスポート、ビザ、関連書類を確認したいというのでチェックして貰ったら何と、私のビザの期限が切れかかっている! 原因は早く申請し過ぎたからなのだ! 神戸港に着き沖合からはしけに乗って桟橋に着き、新幹線で東京へ戻り、中華民国大使館へ。久しぶりに自宅に戻った。
「エッ、もう帰ったの」
違う、まだ神戸だ。船は一歩も日本から出てないのだ。
初めての海外、旅の喜びはいまだ色褪せず
少し、先を急ごう。台湾の基隆港がぼんやり見えてきた。先ず陸地視認の後
順序正しく到着地の映像が少しずつ確実にはっきりと見えてくる。飛行機では味わえない異次元の迫力だ。額縁に入った絵がズンズン拡大する感じがとてもいい。台北市に行くには高速道路をバスかタクシーで行くのだが、幸い船長の車に同乗して市内まで行くことができた。飯店と書いてある場所は飯べる店ではなくホテルのこと、安ホテルはどの辺にあるかなど宿泊に急ぐことを聞き、旅行者として第一歩を踏んだ。
台北にしばらく滞在した後、台中、台南、高尾を巡り再び台北に戻り、かなり滞在した。その後、同じ船会社の便で香港に渡り2週間程滞在し、また台北に戻ることになった。最終的に東京には9月末、高速のバナナ冷蔵船で3日程度の直行便で着いた。台湾海峡を渡りしばらくすると船員食堂の何も映ってないつけっ放しテレビに忽然とNHKの番組が現れた。こんなことでも凄い感激があった。
訪問地の知識なく無計画な学生の一人旅であるが、何も予備知識がないためその町の日常を素直に見ることができた。何でもないことにもいちいち驚いた。一人旅なのでいい加減寂しくなり、映画館や床屋によく入った。映画館では最初に蒋介石総統の映像が現れ、観客は起立して国家を斉唱。そのあと二本立て映画が始まる。映画は小林旭の渡り鳥シリーズをやっていた。街なかでは城卓也の「骨まで愛して」が流れていた。
この旅行は1970年頃、台湾の最も安い宿に泊まったが、費用は当時の
日本円換算で1泊60円から100円、安い代わりトイレは建物共用外付け、水道設備なく洗面器を渡され共用の蛇口から汲んで使う。飲み水は何かのビンに入れて部屋に置く。赤坂プリンスホテルの豪華な部屋が1200円程度の時代だ。しかし、面白かった。
これからの観光情報に思いを馳せ
ありのままに地域を見て廻りたいとする観光客も多い一方、クレイジーな仕掛けを面白がる観光客も多い。サービスを提供するサイドも、古典的なおもてなしの一方、デジタルなおもてなしや観光客の誘導方法も進化してきている。観光客にどんどん情報提供しているがどの程度喜ばれ、役に立っているのだろうか。旅の驚きはプロが練った演出だけになり、造作物だらけになってしまったら日本に来る意味はあるのだろうか。すべては日常の一部と理解すればいいのかもしれないが懸念も期待もある。
今、次世代の観光情報や地方創生をドライブする体験プログラムというものについて思いを馳せている。